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「アクト建機の中の人」シリーズ第十四回目は、
代表取締役の山下 仁和がお送りします。
代表を務めております山下 仁和でございます。
「アクト建機の中の人」シリーズが始まり1年と少しが経ちまして、メンバーもほぼ一周したところで私の投稿は2回目となりました。
前回の私の投稿では弊社から歩いて5分ほどの所にある大田区自慢の「大森ふるさとの浜辺公園(通称:ふるはま)」をご紹介させていただきました。


この大森ふるさとの浜辺公園の先には「平和の森公園」と続き、「弓道場」や「相撲場」、「テニスコート」、「フィールドアスレチック」、「ひょうたん池」、「平和の広場」などを備える大きな公園が続きます。




特にこの「フィールドアスレチック」がけっこうガチで、舐めてかかると大変なことになります(笑)


さらに道路を挟んで隣にはバーベキューやキャンプができる「平和島公園」もあります。


そこで地名の「平和島」の「島」の意味ですが、昭和の初期には本当に陸地から離れた小島がありました。
江戸時代のこの周辺は東海道五十三次の「品川宿」と「川崎宿」の中間になり「平間島(へいまのしま)」と呼ばれる地域で、広大な浜辺と遠浅の海が広がり海苔養殖や貝類の漁などが盛んでしたが、昭和初期に「東京第二埋立地」となり埋め立てで人工島ができました。しかし、その当時は島自体に正式な地名は無かったそうです。
では、ここで問題です!この駅がどこか分かりますか?

答えは1889年(明治22年)頃の「品川駅」です。
品川駅の南に位置する御殿山辺りから望む風景ですが、駅のすぐ右側(東側)は見渡す限りの「海」で現在の品川駅港南口周辺や建物の様子は面影すらありません。
同じように京浜急行線「平和島駅」の隣の駅に「大森海岸駅」がありますが、京浜急行線(旧 京浜電気鉄道)が1901年(明治34年)に「八幡駅」として開業、大正中期に「海岸駅」に改称し、1933年(昭和8年)に「大森海岸駅」と再改称されたのですが、駅名のとおり並走する国道15号(第一京浜)の周辺までが実際に海岸でした。
その海岸から離れたところにある人工島を往来手段が限られるという立地を利用して、戦時中は東京捕虜収容所として使用し、戦後は一変して戦犯収容所(大森プリズン)として使用されました。
現在の平和島競艇場(旧 大森競走場、現 ボートレース平和島)のスタンド辺りがその場所になるそうですが、アメリカの「アルカトラズ(サンフランシスコ湾に浮かぶ旧 連邦刑務所)」の日本版みたいですね。

その後のサンフランシスコ講和条約発効に伴い、捕虜収容所は順次閉鎖になり、戦犯は減刑、釈放され収容所としての役割を終えました。
そして、この悲しい歴史がある人工島を「平和」と「復興」の願いを込めて「平和島」と呼ばれるようになり、1967年(昭和42年)に大田区に編入され(それまでは品川区)、町名が「平和島」に確定命名されました。
今では一帯が埋め立てられ「平和島地区」としてここが離れ小島だったとは思えないほど発展し、収容所跡である競艇場の横には入浴施設(天然温泉平和島)や映画館、ゲームセンター、食品スーパーなどが入る複合施設があり、トラックターミナルや倉庫が立ち並ぶ物流拠点にもなりました。

地名の「平和島」は島ではない場所になりましたが、そこには地域の歴史や背景が深く関連しています。


ちなみに平和島の北に位置する「勝島」ですが、地名の由来は大井競馬場があるので「賭けに勝つ!」からでは無く、1943年(昭和18年)頃に海軍省によって浜川沖が埋め立てられて人工島が完成した際、当時は戦時中の情勢下でしたので「戦に勝つ!」という思いを込めて「勝島」になったという「平和島」とは反対の勇ましい理由が地名の由来だったりします……。
普段から何気なく聞いている皆さんの地域の地名も、調べてみると意外に深い歴史的な理由があるかもしれません。